ドンズー運動(長文)

あさって日曜の夜9時から、
日本とベトナムの国交正常化40周年を記念する
ドラマ『パートナー』が放映されます。
ぜひ見ようと思っています。
 
私はまだベトナムに行ったことはありません。
見所が多くて、なかなか私が行きたいところを
網羅しているツアーがないもので・・・。
でも近いうちに必ず行きたい国の一つです。
 
日本とベトナムの交流は400年前にさかのぼります。
当時、ベトナム中部の港ダナンには、多くの日本人商人たちが
出入りしていました。いわゆる朱印状貿易です。
そしてホイアンなどに日本人町が作られました。
ホイアンはいま町全体が世界遺産です。
 
日本人町といえばタイのアユタヤにある、山田長政がいた所が
有名ですが、それ以外にも東南アジアの各地にあります。
しかしこれらの交流は、江戸幕府鎖国政策によって途絶えます。
そして時は流れ・・・。

ベトナムは19世紀の帝国主義の波に呑まれ、
フランスの植民地(フランス領インドシナ)となります。
ベトナム人はフランス人の支配下でしいたげられていました。
しかし20世紀初頭、フランスからの独立を目指す革命家が
登場します。
それがベトナムの英雄ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)です。
 
彼は37歳のとき、「維新会」という革命団体を結成し、
反フランス運動を本格的に開始します。
そして翌年、1905年に日本に渡りました。
1905年、これは日本が日露戦争に勝利した年です。
日本は明治維新という近代化革命をなしとげ、
開国からほんの30年で、ロシアというヨーロッパの大国を
打ち負かすまでになりました。
ファン・ボイ・チャウにとって、日本の成功は同じアジア人として
誇りであり、お手本であり、目標だったのです。
 
彼は日本で大隈重信犬養毅接触し、ベトナム独立のための
金銭的軍事的支援を申し込みます。
彼らは漢文で筆談をかわしたそうです。
そのとき日本側は、まずは革命を担う人材を育成するために
ベトナムの若者たちを日本で学ばせてはどうかと提案。
そしてその後、続々とベトナムの有能な青年たちが
日本に留学しました。
これを「東遊(ドンズー)運動」と呼びます。
 
実は1905年の日本の戦勝は、ほかにも、孫文による
東京での中国同盟会の結成や、イランでの立憲革命などに
影響を与えています。
 
しかしドンズー運動はフランスの機嫌を損ね、
日仏関係の悪化をおそれた日本政府はベトナム人に国外退去を命じます
(1907年・日仏協約成立)。
 
このとき、革命の芽をつまれて落ちこんでいた
ファン・ボイ・チャウに手を差し伸べたのが、
小田原の開業医だった浅羽佐喜太郎です。
浅羽はベトナム人をかくまったり、帰国後の活動を援助したりしました。
しかし浅羽はすでに結核におかされており、
ファン・ボイ・チャウが帰国した翌年に、43歳の若さで亡くなります。

浅羽の死から8年がたった1919年(第一次大戦終結の翌年)、
ファン・ボイ・チャウは再び日本を訪れ、
浅羽の功績を称える石碑を、彼の故郷の静岡県袋井市に建てました。
 
ファン・ボイ・チャウは1912年にベトナム光復会を結成し、
その後もアジア各地を舞台に精力的に革命運動を続けます。
彼は1925年に上海で、フランスの秘密警察に逮捕され
軟禁されますが(1940年死去)、
その運動はひとりの青年に引き継がれます。
それが、グェン・アイ・クォク(阮愛国)という偽名で活動していた
革命家ホー・チ・ミン胡志明)、ベトナム独立の父です。
 
両国の絆が、どのように描かれるのか楽しみです。
 
今回の記事は今年の2月23日に放送された
世界ふしぎ発見!」を参照して書きました。
同じテレビ局なので、ふしぎ発見の取材がきっかけになって
ドラマが作られることになったのかもしれませんね。